そもそも蘆薈とは
ボルガンクぅ!
うっかりさっぱり失念帝王!蘆薈さんですよ!
いやぁ、ね。
そもそもお前誰よって話しなんだよね。
もう読者置いてけぼり。
こりゃ流石にマズイとさしもの蘆薈さんだって気付いちゃうワケですよ!
と言うことで、遅ればせながら自己紹介を始めましょうかね!
ざっと概要
改めまして、蘆薈(ろかい)と言います。
声優・俳優を志して高卒から業界の勉強を始め、現在はフリーで舞台にでたり、朗読・読み聞かせをしたり、最近ではライブハウスで歌を歌ったりもしとりやす。
専門学校時代は演技論としてリー・ストラスバーグ氏の書籍からスタニスラフスキーシステムを学び、わからない事だらけながらも現在進行形で俳優修行中です。
専門学校時代からの愛読書です。
声優を目指したきっかけ
さて、何でこの業界を目指すことになったか。
実はとしごの弟が重度認定の身体障害者でございまして、幼少期より両親が愛情あれどどうしても構う時間に差が出るもんで、こいつでおとなしくしてるのならとあやし道具に絵本とゲームをたくさん与えてくれたのさ。
もう、夢中でそれらに没頭した幼年蘆薈君はいつしか自分もこう言うの(人が楽しいと思うもの)を作りたいと漠然と考えるようになりやした(小3位からかな)
天性のイジメられっこ
我が一族は大変よろしいことに、親戚一同、やたらと剛健で(まぁ、病気持ちも多いんだけど)親戚付き合いもよく、叔父叔母どころかイトコ、ハトコ、マタイトコ(あえて漢字にしてません)とにかく年上の大人、お兄さん、お姉さんに囲まれまくり、影響受けまくりでした。
卒園したのが教会附属なのもあり、そこでも年上との関わりばかり。
おかげで小学生にして既にひとつ浮いた存在に。
待っているのは異端狩りですわ。
仲いい友達(今も付き合いのあるような大親友)ももちろんいたけれど、大抵は“イジメられる存在であること”がデフォ。
たまに仲良くしてもらっても、次のシーンには…ね。
流石に上履きに画鋲はなかったけど、頭かちわって縫い跡でハリーポッターになったり、公園でそのへんにあった飲みかけの缶ビールぶっかけられたり、階段の踊り場から突き落とされるとかはあって、おでこにタンコブ作ったことも。(コレは全部小学生の頃)
ここは笑ってほしいんだけどさ、タンコブってホントに焼いたもちみたいにぷくーってなるんだよ!
パニックで泣いてたけど、あとあと冷静に見たら自分でも感嘆の溜め息だったよ。
あとは、1個上の先輩が卒業するまで、朝の挨拶“鳩尾一発!”だったしね。
そして、逃げるように私立へ入るも、そこでも変わらず、結局高校卒業まで物理的イジメは終わりませんでした。
専門学校でも浮いてたし、養成所でも…みなまで言うべからず。
まぁ、俺も我ながらトゲトゲしい自覚はありますけどね?
でも、普段はおちゃらけていいとは思うけど、目指す道には真摯でありたいから。
周りとは常にエネルギーの温度差を感じてます(比較的現在進行系)
だから自戒も兼ねて心持ちとか言葉だけでも意識高い系を心がけてます(そうして、後にアグレッシブ過ぎて“和を乱す”“協調性がない”“謙虚になりなさい”とお叱りを受けるようになるのだ…)
そんなこんなで、自分の痛みに詳しい蘆薈さんは、心の奥底には“自分だけでも他人を最後には助けられるような誰かになろう”と刻み込んでいったのでした。
その時の少年蘆薈くんの心の拠り所はやはり、ゲームやアニメーション(特に児童向け作品)、小説の世界なのでした。
あとはたくさんの食事←
このあたりからのゲームセンターでできた仲間は一生の宝ですわ。
マジで。
言葉が大好きな家族
ところで、両親は文系まっしぐらでござい。
父は俳人をやっており、その道では割と名のしれた存在なのだ(両親、祖父談)
母親も母親で、まだオタクなんて言葉もない、第一次声優ブームを駆け抜けたオタク女子(どーやら腐女子的なものではなかったみたいだけど)にして演劇好き。
そんなわけで俺自身、幼年期から人形劇やら母の読み聞かせやら、父の影響で俳句やらととにかく言葉と表現に日常的に触れていった。
おかげさまで、小学生の頃は故事ことわざ博士と呼ばれてた。(今は名残もねーですわ、ハイ)
中学に上がった頃、母親がかねてからの夢であったと蘆薈を劇団四季につれていくようになった。
祖母は蘆薈を歌舞伎に連れて行くようになった(謎)
ヤマトタケルノミコトとか狐鼓(だっけ?)とか。
こうして、言葉遊びや言い換えが大好きで、心からコトダマを信仰するような蘆薈少年が産まれた。(コレが中二病のベースかも…)
今でも、簡単なキャッチコピーとかを即興的に考える遊びとかを良くやりますわ(このブログの冒頭のアレとか)
進路の決定
中学2~3年くらいの頃から、本格的にオタクに目覚める(いや、多分すでにオタクだったんだろうけど、萌えとかあまり関心がなかった)
流石中二病と言うだけあって、きっちりこの期間なんだね。
もっぱらゲームオタクではあれど、多少ノベルゲームやライトノベルに関心が行く。
そんなこんなで、本格的に声優さんの追っかけなんかを経験し、将来の夢はゲームを作るか、出演者だ!と決心する。
そして学校の勉強大ッキライな落第生は文系選択を余儀なくされ、必然的にゲーム制作陣への夢は絶望的になったのだ。(それでも企画を目指すかは迷った)
専門学校との出会い
両親は表向き賛成してくれたが、やはりこのことは快く思っておらず。
仕方なく表向きゲームプランナーを目指しつつ、担任にはしっかり意思を伝えた。
すると、アニメーション業界の専門学校、一斉ガイダンスのお知らせを当時の担任が持ってきてくれた。
当時のオタク仲間を引き連れてガイダンスに向かい、オープンキャンパスめぐり。
コレが高校2年の夏だ。
そこからはもう親との交渉を経て進路決定。
高3の1年間とかどうでも良くて、高2の蘆薈君はかねてから大好きな調べもの(主にネットサーフィン)とゲームに没頭して、業界を生きる者の心構えを学び始めた。
結局劣等生
待ちに待った専門学校、まだまだ続いたイジメられっこ生活を経てたどり着いた生き方。
とにかく先生の教えを身につけたくてといった感じ。
しかし、現校長に“お前耳大丈夫か?感想が見当外れ甚だしい!”と言われるほどの感性音痴。
それでも必死に考え、真面目にレッスンに当たっていたところ、その熱意に関してだけは現校長先生、そして今は亡き当日の理事長先生から、その他の先生方からも評価頂いた。
クラスメイトといるより、放課後も休み時間も先生と芝居の話をするほうが楽しくて、面談室にこもってたような気もします。
…うん、典型的な劣等生だね☆
でも、そのおかげで学校とは今でも深くお付き合いさせていただいてるし、実は同期で業界に残ってるのは俺だけです。
まぁ、そんな感じで業界に片足を突っ込み、某事務所の養成所へ。
養成所では数人の仲間とグループになり、そのメンバーには結構頼ってもらい、色々一緒にやりました。
芝居について語ったり年一ペースでディズニー行ったり。(中学時代から、仲間を集めてディズニーに行くのは定例行事にしてます)
しかし事務所さんの方針と俺の考えに明確な違いを感じたのと自分の実力不足から所属を諦めフリーランスとして今に至ります。
いやぁ、長くなりすぎて申し訳ない。
今度は折を見て趣味とか好きなものについて書きたいかな